水掛け祭りの季節
こなちゃんと言う友達がいます。
彼女が今、世界一周旅行に言ってて、ちょうどタイにいて、タイの旧正月に出くわしたようなんです。
で、ソンクラーンと呼ばれるこの祭りは、ひたすら水を掛け合うんです。
今日はソンクラン!
— こな🌏 (@kona_tabi) April 13, 2018
タイの水かけ祭り😁
バス乗ってただけなのに外から水かけられてこのざま。
このあと更にやばいらしい、、、!#こなたび pic.twitter.com/UMAUJoaOaP
それで、自分が12年まえに出くわした、ソンクラーンのことが懐かしくなったので、昔の旅行記を投稿します。 今、読むと恥ずかしいな。
はまさきのあゆみ ラオス風雲たけし城編
「僕“シャア”ってあだ名の日本人探しているんですけど、知りませんか?」
これを言われた時、僕は漫画のように椅子からこけそうになった。
「いや、ユウキさんに『シャアって面白い奴がいて多分そろそろラオスに来るはずだよ。見れば、あ、シャアだって分かるから』言われたんですよ。どんな人か会うのを楽しみにしてるんですよ。」
これを言われた時、不覚にもガンダムのシャアが、そのまんまの金髪に赤のジオン軍の制服で旅をしている姿を想像して吹き出しそうになった。
そんな奴は絶対にいないだろう。
「すいません、それ、俺です。多分その“シャア”って人は俺のことだと思います。全然普通の格好で御免なさい。」
別に僕は何も悪くないがとにかく謝りたくなった。
本当にようやくの思いでたどり着いたラオスの古都(この呼び名で呼ばれる街に行くのは何度目だろう?)ルアンパパーンで泊まったゲストハウスで、出会ったまだ20そこそこだろうか、典型的な日本人貧乏旅行者風の痩せた青年と、メコン川を眺めるカフェでビールを飲みながら、同行の西洋人の女の子達がランチを食べるのを待っている時の会話だ。
このカツヤという青年には、日本人が多くて雰囲気が良く安いと書いてあったゲストハウスに泊まっていて知り合った。
彼も一人で東南アジアを5ヶ月旅していて、彼はラオスの南の首都ビエンチャンでユウキにあったらしい。
それで、ユウキの思い出話やカツヤがユウキにあった時の様子を話して盛り上がっていて僕がユウキにニャチャンで会ったことを話すと、冒頭の質問をしてきた。
本当に旅人の世界は意外と狭いと言うか、噂の力は恐ろしいと言うか。
この調子ではユウキに会った日本人には皆「東南アジアにいるシャア」伝説を流布されてしまう。(後で早速メールしたら「はははは、面白いな、それ。」の一言だった。)
「ラオスには必ず行け。田舎で何も無いが、人が凄くいい。ビールが旨いし焼き鳥も凄く旨い。のんびりするには最高だ。」
コミチから聞くまでは僕の頭の世界地図に「ラオス」という国は無かった。
この一言で「ラオス=楽園」とインプットされた。いつか行こうと心に決めた。
しかし、最初の計画では取りあえず香港からベトナムを縦断してカンボジアでアンコールワットを見たら、バンコクで航空券を買ってヨーロッパに飛ぼうと思っていた。
東南アジアは暖かいし、冬のヨーロッパは寒いから春までに2ヶ月くらいで回れるだろうと思っていた。
ところが、思えば遠くへ来たものだ。
当初は予定に無かった雲南省に、ラオスまで行くことになった。
ついに持参したガイド本「メコンの国」に乗っている5カ国を制覇することになる。
アジアの旅に慣れた僕はいつの間にやらアジアに居心地の良さを感じていたのかもしれない。
それに中越カンボで恐るべき現地人の執拗さにやられ、タイで都会の悦楽に溺れた僕にとって、「どうせ行くなら楽しみは最後に残しておこう。」と残しておいたラオスが僕に安らぎをくれ、もう一度素直に旅を楽しむ心を取り戻せるかもと勝手に期待していた。
とにかく、僕は動きたかった。いや動かないといけないと真剣に思った。
旅に慣れ、旅にだれていた僕はチェンマイでもまたバンコク同様に無為な時間を多く過ごし、堕落して安住を求めようとする自分に必死で歯止めを掛けようとしながら、風邪もあって頭はそう考えても踏ん切りがつかなかった。
結局僕の背中を押してくれたのは、一応値段と時間を確認しようとふらりと入った旅行社で、もうすぐソンクラン(タイの正月)だから移動できなくなると知ったことだった。
もう1週間もこの街に居てはいけない。僕は翌日の切符がまだあるのですぐに買った。
宿のおばさんは、僕が明日出発すると言うと、チェンマイの水掛祭りが一番盛大で大勢の観光客が見に来るほど盛り上がるのに何でそれを見て行かないの?と笑っていた。
この時の僕はそんなお祭りに興奮するどころか、いちいち水を掛けられるのも水を掛けるのも面倒臭い。パソコンを壊されでもしたら大変だ。と、むしろ気持ちは盛り下がっていた。
そんなことなら動ける内に動いてしまおう。ラオスを旅すれば、また旅を楽しむ心が戻ってくるかもしれない。
そう、エンストした車も押してやればまた動き出すように。
そんな淡い期待と幻想をラオスに抱いてしまった。
でも、体調は最悪だった。相変わらず体はだるく、熱っぽい。
しかし、ラオス行きを決めた日から僕の体調は少し変化しだした。 無性に腹が空くのだ。
普段一日2食、うっかりすると1食の時もある旅行中の僕にしては珍しいが、この日は一日4食も食べた。
定期的に小さな風邪を良く引く弟が昔、「私は風邪を引くと予兆として飯を沢山食べるようになります。」と言っていたのを思い出し、メールで聞いてみた。
「それは、風邪の治りかけだわ。回復するために体がエネルギーを必要とするんだ。」とメール魔の弟からものの数分で回答が帰ってきた。
これは知らなかった。
人は風邪の治りかける時は腹が減るのか。
そんなものだったか?
ふと、自分がもう長く風邪を引いていないことに気づいた。
良く考えれば20歳の終わりの頃以来だ。
久しぶりに引いた風邪は、勿論引かない方がいいには決まっているが、健康のありがたみをつくづく教えてくれた。
健康も普段はそれが当たり前なのでその大事さに気づかない。
たまには病気もいいもんだ、と思った。
ただ、ラオスに向かうバスに乗った僕は蒸し風呂のような車内の暑さにやられ、また風邪がぶり返したのかだるさにうなされながらマグロのようにぐったりと座っていた。
「やっぱ止めておけば良かった。」と後悔しながら。
ラオスとの国境の町チェンコンで一泊した。
そこに来るまでの道すがら見ていた窓の外の景色は、凄い田舎だった。
日本でも凄い田舎はあるから分かるが、それに輪を掛けてタイの北部は「ここは中国か?」と思ってしまうほどの田舎風景だった。
チェンコンですら、これが街か?単なる村じゃないか?と言うほどに小さい。
ラオスを目指す旅行者が来るからだろう何軒かのゲストハウスとレストランがあるくらいで歩いて15分で端から端まで行ける。
目の前にはメコンデルタに比べれば全然細い普通の川に見えるがそれでもゆったりと流れるメコン川が横たわる。
この川を挟んで向こうがラオスだ。
非常に明快で分かりやすくていい国境だ。
僕はその夜、メコン川を眺めながら明日は有名なラオスのビアラオだなと、思いながらタイのビアシンを飲んで過ごした。
タイの出国もそうだが、ラオスの入国も殆ど何も見ていないのではないかと言うくらい数秒でスタンプを押してくれる。
この国境を逃すと両替できないらしいので、腹巻から一万円を出して両替しようとした。
しかし、係りの者は出来ないと言う。身振りで言ってきたことには、僕の腹巻に入れていたくしゃくしゃの札の端にほんの少しだが、切れ目があるので受け付けられないとのことだ。
しばらく、これしかないと言って粘ったが、「すまないが、君の国ではOKでもこの国では駄目なんだ。」と言われて鞄の奥からピカピカの新札を出した。
すんなり両替できたが、まるで10万円は両替したんじゃないか?と言うくらい数えるのが嫌になるくらいの量の札束が来た。
しばらく近くのレストラン風の店で待たされた後、軽トラックの荷台に幌で屋根がついた車の荷台に座らされて、船着場まで連れて行かれる。
同行は白人の若者2人に綺麗な白人の女性1人(ちなみにハンガリー人らしい。僕がどこから来たの?と尋ねるとハンガリーと言ったのを同行のおじさんが聞き間違えて、「ハングリー?お腹減ってるの?」と言ったのは笑った。)にドイツ系のような大柄な中年男性1人に、日本人の初老のおじさん1人に眼鏡の中年の日本人のおばさん1人に僕。
船着場までは、皆「スローボートの方が安いと言っても、一泊する手間とお金を考えたらそんなに違わないのに、時間がかかるほうを選ぶなんて馬鹿だ。」と言っていた。僕も同意見だった。
しかし、船着場まえほとんど崖のような切り立った坂を転げそうになりながら降りた。(おじさんは荷物が多くて本当に大変そうだった)水面に立つ小さな小屋から船に乗るようだが、一目船を見た瞬間に嫌な予感がした。
何と、スピードボートとは細長い競艇でもしようかと言うくらいのモーターボートなのだ。
これの前部に無理やり全員の荷物を置き、網と縄で固定する。
そして、乗客は4列の座席に各列2名座る。
そして乗ると、各自に救命胴衣とバイクにでも乗るようなごつい風防付のヘルメットを渡される。
おい、いくら早いとは言え、これじゃあスピード競争のスピードじゃないか。
本当に大丈夫だろうか。
真剣に不安になって鞄の中のパソコンがどうか水を被って壊れませんように、そして、事故無く五体満足で無事着きます様にと、祈りたい気持ちだった。
走り出した途端、ぐっとジェットコースター並みにGがかかる。
空気の抵抗が凄まじくて風防を下ろさないと息も苦しくてできない。
エンジンの音もひどくでかい。
そして時折大きな波に当たると、飛び跳ねるように船体がバウンドする。
その揺れと粗末な板を横に渡しただけの座席のせいで、15分もしないうちに尾てい骨が痛くなる。
こんなものに6時間も耐えられるのだろうか?
普段のバス移動なら本でも読んだり、寝たりしていれば済む。
何でもない時間だが、この時は本も到底読めないし、他にすることも無い。
寝れる訳ないし、目も閉じてられないくらいスリルだらけだ。ひたすら耐えるしかない。
こんな時は時間が凄く遅く感じる。もうかなり来ただろうと小休止で時計を見たらまだ、1時間も経っていなかった。
「大丈夫か、この船?」
これが東南アジアのいい加減さの典型だろう。
昼食休憩を終えて出発したボートはいきなりエンジンがプスプス音を立て止まってしまった。
近くの小島に寄せて修理するのだが、どうもエンジンに何か詰まったらしい。
さらに修理と言っても見ていたら近くの草をちぎって来てそれでエンジンの管のような部分を掃除している。
互いに顔を見合わせる乗客。
どの顔にも「これは、無事に今日のうちに着くのだろうか?」と書いてある。
皆「早いほうがいいから」と言う理由でスピードボートを選んだことを後悔していた。
しかし、それでも何とかエンジンは直りまた軽快に走り出した。
それで安心したのもつかの間、 「Oh#&%!」 突然僕の前の席に座っていたドイツ人(こいつには可愛そうだが、彼の大きい体が風除けになってくれて僕は非常に助かった)のヘルメットが風圧で吹っ飛んで後ろの僕のヘルメットに当たり飛んでいってしまった。
本当に危ない乗り物だ。
それでも最後の2時間くらいは開き直ってこのボートのレースの行く末を楽しむ余裕も出来て来たが、依然として服を脱いで座席に敷いても僕の尻の痛みは限界を超えていた。
ようやく、メコンに夕陽がかかる頃に船は到着した。と言っても地元の子供たちが裸で水浴びしている、何もない岸にだが。
そこから、また崖のような坂を登り、客目当てに待ち構えているトラックに乗り合わせてルアンパパーンまで向かった。
僕らの乗ったトラックの運転手はまだこちらの通貨になれてないのを言いことに一人80Bなどと、ぼってきた。
すると隣のトラックの客が「ぼってるよ。そいつ。こっちは20Bよ。」と口々に言ってくれ、助かった。
ラオスは人がいいと聞いていたのに、いきなりぼられそうになるとは。
この日は、同行のおじさんの好意で彼が泊まる部屋に泊めてもらった。
40$もするだけあって快適で、しっかりしたホテルだった。
僕は本当に久しぶりにシャワー専用スペースのあるバスとエアコン付きの部屋に泊まれた。
以前の海外旅行なら当然のように泊まっていたような部屋でも3ヶ月5$以下の安宿に泊まってきた身にはとんでもない贅沢に思える。
その後、夜の市場で屋台の立つ通りに行き、好きな惣菜を自分で取って食べる屋台でたらふく(それでも一皿5000キップ。約0.5$)を食べ、念願のビアラオを飲んだ。
その時は旨い、と言うか何か味がしなくてすいすい飲めるビアだなと思った。
気がつくと3瓶空けていた。
この市場のことはコミチも僕にくれたガイド本に書いてあった。
「ここには夜になると市場が立つ。トリだ。とにかくトリをくえ」と、まるで気違いのように書いてあったので、一体どんな鳥なんだろう?と本を眺めながら楽しみにしていたのだが、実際に見てみると、ほとんどクリスマスの七面鳥くらいのサイズがある串に刺さった焼き鳥(と言うにはサイズがでかい)が網の上で売られてる。
炭の上に網を載せただけの上で焼かれた狐色になった鳥の串を買って帰って食べた。
ささ身のようにさっぱりした肉がいいタレと焼き加減で素朴で美味しい。
しかも串と言っても魚一匹分くらいたっぷりの量の肉で5000キップとこちらも安い。
そうか、これがラオスか。いいとこだな。
僕は疲れもあってあっという間に寝てしまった。
翌日、目を覚ますと珍しくガイド本に従ってドミトリーのあるゲストハウスに泊まった。
日本人が集まるところらしく、確かに書いてある通り、半地下の石造りの大広間にベッドが8つあり、それぞれの枕元に黄色の電灯と扇風機があって非常に神秘的な言い雰囲気だ。
ここで、僕はカツヤに出会いった。
この日は町をぶらぶらしてビアラオを飲んで過ごした。ルアンパパーンは街自体が世界遺産に指定されているらしいのだが、僕にとってはメコン川の眺めがいい、田舎ののんびりした町と言った印象だ。
ビアラオはやはり、噂に違わず旨い。
何が旨いと言うのではなく、全く癖が無いのがこのビールの特徴だ。
ビールは沢山飲んでいると苦味が増してきて不味く感じるのだが、それが一向に来ない。
僕の拙い表現力では上手に書き表せられないが、一言で言えば「水のようにグイグイ飲める」ビールだ。
その翌日、ドミでちょっと喋った隣のベッドの赤毛のイギリス人の娘が、友達に洞窟を見に行かないかと誘われ、あなたもどう?と僕を誘ってくれた。
ついでに向かいのベッドで寝ていたカツヤも誘った。
こうして、彼女達が昼食を食べている間にビールを飲んでいたら、僕がシャアだった、ということが判明してしまった訳だ。
洞窟ツアーは白人の娘4人と僕ら2人だったのだが、結局カツヤとばかり喋っていた。
年齢派離れているが、妙に話があった。
カツヤが英語が苦手だったかもしれない。
洞窟に行く船は、凄く流暢にタイ語を喋る小柄な白人の娘(これが小憎らしいまでに首を傾げながらタイ語で交渉する。悔しいが可愛いと思ってしまった。)が交渉をまとめ、一人5$で行けることになった。
しかし、ゆったりとした屋根つきの船でやれやれ、のんびりと行くかと思ったのも束の間、船を乗り換えると言う。
見ると、あの、もう2度と乗るまいと思った。スピードボートだった。
それでも、慣れもあってか1時間くらいなら、むしろジェットコースターのようで楽しめた。
洞窟はラオスに仏教が定着した時に王が作らせたとかで、洞窟の中に無数の石仏が置いてある、まるで虐げられたキリスト教の地下協会みたいだった。
ものの10分も見れば十分だったが。(やはり、この頃はもう観光する意欲はかなり萎えていた。それはカツヤも同様だった。) 帰り道にどういう訳か、船は小さな村に寄ってくれた。
ウイスキー村らしい。
ここはラオス特産の焼酎ラオラーオ(ちなみにラーオとは酒の意味)を作っている村らしい。
噂に聞くラオラーオはかなり種類があった、赤い色をした酒は赤ワインのようだったし、白い濁った酒は甘酒か日本酒のようだった。勿論、無色透明の酒は一口飲むと喉が焼けるように熱い焼酎だった。
僕は小瓶で焼酎と白い濁り酒を買って帰った。
部屋に帰って寝酒に飲もうとしたが、きつくて断念するほどきつかった。
ルアンパパーンは、世界遺産に指定されている古い都らしい。
しかし、残念ながら3軒ほど古いお寺があるだけで、他は何も無い。
夜市が立つ大通り(と言うのも恥ずかしい程普通の通りなのだが)沿いに西洋人が好みそうなレストランや何件と旅行社やネットカフェがあり、その付近にまあまあ数多くのゲストハウスが存在する。
屋台の並ぶ細い通りがあり、ここで夜の食事や惣菜や焼き鳥を売っている(と言っても9時頃には終わるが)程度だ。
はっきり言って田舎だ。これでも世界遺産か?と言いたくなる。
ただ、町はメコン川に沿って横に幅広く伸びていることが象徴するように、カツヤから「シャアって知ってますか?」聞かれたカフェでもそうだが、メコン川を眺める景色は抜群だ。
それくらいが売りの町だ。
繰り返すが絶対値で見れば、田舎だ。
晩飯を食べながらカツヤに 「しかし、ここは何もないよなー。まあのんびりするにはいいけど。」 と、言うと 「いや、ここでもまだましだよ。バンビエンなんて本当に何にもなかったもん。ここに来て『ああ、やっとすることができたー』て思ったよ。」 前もって聞いていたが、やはりラオスは相当に田舎だ。
しかし、こうやって粗末だがこれが唯一の屋台通りでビアラオを飲みながら夕飯を食べ、もう9時で真っ暗な町を歩いたりしていると、不思議と居心地がいい。しばらくのんびりしてみるのもいいな、と思った。
しかし、僕の旅はそうはいかないようだ。
「ルアンパパーンのソンクラーンが一番盛大だ。私はそれを見に来た。」 同じドミで、どうしてだろう、僕より前に居るのに何故かベットでなく石棚のような余ったスペースに布団を敷いて寝ている、白髪で髭もじゃの、まるでホームレスかチベットの高山にでもいそうな風体の自称タイ人はそう言った。
僕は、正直ラオスではソンクラーンは無いと思っていた。
一気にやる気が出た。 元来僕はお祭り好きだ。だから、盛大と有名なチェンマイのソンクラーンを逃したのは少し心残りだった。
しかし、祭りの神は僕を見捨てなかった。
さらに、最も僕を奮い立たせたことに年によって太陰暦で変動するソンクラーンの一番メインの日(地域によって始まりと終わりが微妙に異なるがどこでもやっている日)は4月14日らしいのだ。
これは僕の誕生日だ。
同じ4月生まれの人間なら分かってもらえるだろうが、総じて4月生まれはあまり誕生日を祝ってもらえない。
学校だと、大抵4月にクラス替えをするから新しい出会いの月なのだが、新しすぎて祝ってくれる友達が出来ない内に誕生日は過ぎていく。
酷い時など、大学一年の時だが入学式より前に誕生日が来た。
あまりに切ないのでたまたま大学の友人に4月生まれが多かったために、僕は翌年から4月生まれが互いに誕生日を祝いあう4月誕生日会を企画した程だ。
(ひょんなことに、これはそれ以来、一年を除いて驚異的な集まりで毎年恒例化している。僕がチェンマイに居る時にも日本でやっていた。毎年プレゼント交換もする。これのお題を僕が考える。そのテーマにそってメンバーは必死にとんちを捻る。)
初めて26年目にして自分の誕生日が意味あるものであることに喜んだ僕は、夕食のあと、夜市で水鉄砲を2丁買った。
それも僕は遠くまで飛ぶ大きなライフル型、カツヤ用に背中に小さな水タンクの付いたものだ。
一応説明しておくと、タイ地方独特の正月の祝い方は「水を掛けてあげる」だ。
すなわちお祝いである以上、水を掛けてあげるのが礼儀。掛けられたほうは文句の言いようの無い、というすばらしい祭りだ。ほとんど野球の祝勝会のビール掛けに近い。 これは素晴らしい。
僕は毎年夏になると祖父の家で最後はけんかになるまで弟と水鉄砲合戦をやった男だ。
そして、26になってもまだ子供の心は不必要に健在だ。
早速、カツヤに「戦いにいくぞ!」と有無を言わさず水鉄砲を持たせた。
ふと思いついて、普通に水をいれてもつまらない、少し隠し味を足すかと昨日飲めなかったラオラーオを入れてみた。
これの威力は不幸にして、宿のまだ幼い子供が興味深そうに近寄って貸してくれと言うので貸してやった時 「ぶわっつ!!」 不幸にも一番狙いやすかったのか、カツヤが打たれた。
そして、 「うわー!すげ酒くせー!!」 可愛そうにカツヤはいきなり朝からシャワーを浴びる羽目になった。
しかし、本当に大人気ない僕はよしよしと、チェンマイで買ったバンダナを締めてサングラスを掛けまるでターミネーターみたいな風体で銃を構えて町をうろつき出した。
しかし、僕は戦火のサラエボのように町中で水鉄砲合戦をやっているかと思ったのだが、予想に反してまるでゴーストタウンのように静かだ。
仕方がないのですれ違う自転車や車に「Happy New Year!」と水を掛けて回る。どうも様子を見ていると今日はまだやってないみたいだ。
中には掛けられて頭に来たのかバケツで水をかけかえしてくる奴もいたが。
一応自己弁護しておくと、地元の子は可愛そうだったのでいつも我が物顔のファラン(白人)を中心に狙って打った。
でも、相手が反撃しないと面白くない。まるでテロリストのようだ。
「もしかして、俺大人気ないかな?」 「今頃気づいたの?完璧そうだよ。」 カツヤの呆れ顔も気にならない。
その後、唯一気の早いファランの集団と遭遇し、向こうは5人と多勢ながらもサングラスで防御して相手の目を狙って一発当てると 「OUCH!」 「Oh!Whisky!」 と、一発で戦闘不能にし、快勝を収める。
「はははは、弾は水とは限らんぞ!」 ともはやおかしなテンションに突入する僕。
「ほんと、大人気ない。これじゃあシャアじゃなくてターミネーターだ。」 と半ば笑いながらカツヤは呆れていた。
その翌日14日は僕の誕生日だ。 「よーし、今日が本番じゃ!」 と、あほなことにますます僕はいきり立っていた。
とりあえず、水鉄砲を用意すると早めに11時くらいに昼食を食べに出かけた。
しかし、今日は昨日と違う。 容赦の無い子供たちがご飯を食べていても水鉄砲で襲ってくる。
しかも奴らは引き際を知らない。
やられてもやられてもかかってくる。
一人の子供など、僕に撃って来て正確無比な本日も酒入りの一撃を目に食らうと「痛いー」と言わんばかりに目を必死にこする。
それでも治るとまた撃ってくる。
以下同じことを5-6回も繰り返す。
何だか、見ていると非常に可愛いくもなって来る。
(ついでにこの時目撃したのは、子供たちでも一応の分別はあるらしくて、大人だと襲うが、もう年のいったお婆ちゃんが通ると、年長の少年が「まて、お婆ちゃんだ。これは打つな。」と遠慮する。ますます、ラオスの子供がいとおしく思える。)
一旦宿に帰った僕は昨日買っておいた数丁の小さな水鉄砲を持って飛び出した。
ついでに宿に暇そうに居たブルースという白人も誘って手下を増強した。
本日は誰も気合が入っている。
何しろバケツで水を掛ける奴に水道のホースで通りがかる人を襲う子供、トラックで走りながら荷台からバケツで水を掛けまくる奴。
本当にあほな祭りだ。
僕は昨日同様のターミネータースタイルにもはや上半身は裸で、下半身はいつも短パン代わりにも履く丈の長い水着で完全体勢だ。
まあ、こうしてやったりやられたりで盛大に打ち合う。
しかし、不思議とキャラクターなのか3人のうちでカツヤが一番水を掛けられていた。
やはり、気が弱そうで狙いやすいのだろうか、子供からも良く狙われていた。
こうして、メコン川沿いを進軍すると、行く手に渡し舟がある。向こう岸の方が激しくやりあっているとのこと。有無を言わさず渡ることにする。
すると、いるわいるわ。ちょうど向こう岸の手前の中州のようなところで大勢が盛大に水をかけるは、手に持った白い粉を塗りたくるは、大変な騒ぎだ。
僕はふと、戦国時代の上杉と武田の川中島の合戦というのはこんな感じだったのかなと連想してしまった。 これは中々の激戦だった。
何しろ360度全てが気が休まらない。
何気ない少年にすれ違い際に粉をぶっ掛けられたりする。
勿論こちらだって打ち返すがこの頃には弾も尽き、メコン川の泥水を装填していた。
ふと、見ると一体どうやってきたのやら二人の地元の少年がふらふらと歩いている。
そのうちの一人が僕の銃を見るとそれを貸してくれとせがむ。これはいい。僕は腰に入れておいた小さい水鉄砲を貸してやった。
「こらこら、撃つ相手が違うだろ。」 いきなり同行の少年を撃つ少年。
あのファランを撃て!と言うと一緒に撃ち始める。
こうして僕の軍団は5人に増えた。 この二人が結構律儀について来る。
勿論はぐれそうになると、僕も「おいおい、こっちだ。こっちだ。」とちゃんと呼ぶ。
ちなみに言葉は全く通じないはずだ。思いっきり日本語で呼ぶのだが、不思議とニュアンスは伝わる。
こうして僕らは散々にこの合戦を闘った。主に標的はファランだが勿論撃ってきたら誰でも当然応戦する。
途中屋台で休み、僕はビアラオを飲み少年達にはコーラを奢ってやった。
これを年上の方の子が一人で飲もうとするから、こらこらちゃんと半分分けしなさいとなだめたり、すっかり気分は父親だった。
「やっていいですか?」
「おう、やってくれ」
誕生日記念にカツヤにビアラオでビール掛けをしてもらう。
これでまた、気合をいれて更に川中島を突っ切ったところで、帰ることにした。
いつの間にやら3人に増えていた子供たちはとても寂しそうに手を振っていた。
束の間とは言え、僕も寂しくなった。勿論銃はくれてやった。
生まれて初めてこんなおおはしゃぎした誕生日は無かったと思う。
一番大人気無かったとも思う。
僕の人生は上手く出来ているらしく、翌日きっちりとまた風邪を引いた。お後が宜しいようで。
こうして、たいしたこともせず、カツヤと水鉄砲撃ったり屋台で飯を食べたりドミで彼が中国で買った宮崎アニメを僕のパソコンで見たりしているうちに時間は過ぎていった。
川中島ソンクランを戦った翌日、僕は風邪で苦しみながら珍しくビールも飲まずにラオスのカオニャオと言うもち米を食べていた。
勿論カツヤと 「シャア、やっぱり今日行くわ。」 元々カツヤは今日行く予定だった。
彼は僕より長くもう5ヶ月旅している。資金はアルバイトで貯めたらしい。
しかし、こいつは僕以上に駄目旅行者だ。何しろ、いきなり中国の雲南省の大理で1ヶ月半の沈没生活を送っている。
カンボジアのシェムリアップでも殆んど遺跡を見ずに宿の前にたむろしているバイタク達と友達になって遊んでいたと言う。
凄いのだか凄くないのだか分からないがそれなりにこいつの話もなかなか面白かった。
基本的にはほとんどやる気が感じられないと言うか、生ける仏のような風貌の奴なのだが。 一つ彼から聞いた面白い話しを紹介しよう。
カンボジアで仲のいいカンボジア人に女の子をナンパに行こうと誘われた。
しかし、そいつには彼女がいるのでどうしてだと聞いたところ、彼女といえどエッチの時はお金を取られるので変わらないからいいんだ、という愛もへったくれも無い答えが帰って来た。
日本ではいくらだと聞かれたので、そんなのはタダだと応えたら大層驚いたらしい。
ううむ、価値観というのは本当に国よって変わるものだ。
この話にはさらにオチがある。
すると、一人のカンボジア人がこう言ったらしい。
でも、俺はこの間日本人の娘とヤッたけど、4$取られたぞ、と。 誰だ、その日本人?4$っていかにも現地では現実的な価格なんだけど。でも日本では400円ちょっとなんだから取るなよ、金は。中途半端に。
カツヤは一応夕方で戦いは終わっただろうと、6時前にバス停まで歩いて行った(後で聞くと散々に水を掛けられたらしいが)。
彼が行ってしまうと暇になった僕は、一日経ってまあ体調も回復したので同じく出発することにした。
僕は昼の便で行くことにしたので念には念を入れて車をチャーターした。(といってもトラックを1$でだが)
しかし、バンビエン行きの長距離バスのバス停で切符を買うと窓口で、でも多分あと1時間は出ないよ、と言われた。
ここでは客がある程度一杯になるまでバスが出ないらしい。
それでも出発予定時刻を30分過ぎて乗り込んが客はまばらだった。
せっかく席を取ったのだしと汗をだらだらと流しながら待っていたのだが、気が遠くなるほど待っても発車しない。
2時間半待ってやっと出発した。
その頃には僕は、怒りと諦めとおかしさと全ての感情が一回りしてもはや無感動になっていた。
このバスが今までで最高級に劣悪な環境だった。
カンボジアでも効いてなくても一応クーラーは効かせようとしていたが、このバスには最初からない。それもそのはず乗っているのは現地民ばかり。
窓からの風では足りず、汗だくでシャツまで脱いでも暑い。
しかも、道は当然舗装されてない、曲がりくねった山道でよく揺れる。そして粗末なシート。
景色も延々と山道で人里すら無いので自然を感じると言うより、飽きる。
本も読む気が起きない。ただただ、ぐったりと早く着かないかと祈っていた。
そんな僕の期待に反してようやく到着したのは10時過ぎだった。
それも、ここが本当に町か?というくらい寂しいところで危うく降り損なうところだった。
適当なゲストハウスに泊まった翌朝、目を覚ますととりあえず町を一周してみた。
本当に「とりあえず」で一周できる広さだ。
端から端までが歩いて15分くらい。うちの町内くらいだ。
しかし、景色は抜群にいい。すぐ前方に綺麗な小川が流れ、その前方に桂林やハロン湾の奇岩を思い出させる奇怪な形の岩山がある。 狭いが、抜群に景色はいい。
これは何かのんびりと楽しめそうだな、と期待が膨らんだ。
<注:バンビエン滞在記は不適当な内容のため割愛しました。>
本当に何もなければもっとこんな幸せな日々を送っていただろう。
僕をまた前に向かせたのは一通のユウキからのメールだった。
「シャアー、俺は今カオサンで水掛やってるぞ!23日までいるから早く来い!」
これで、よし、そろそろ奴に会いに行くかという気になった。
4月の20日にバンビエンを出た。
本当はビエンチャンに一泊しようかと思ったが、面倒くさくなり滞在わずか3時間で夜行のバスに乗り一路カオサンを目指した。
ラオス入国が4月10日で出国が20日。あっという間の日々だった。
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